blog論2005年バージョン
梅田望夫さんのBlog論2005年バージョンを興味深く読んだ。
自分が読んできたblogには用途がつぎの2つあって、
* 直接の知人が書いたものを読む。
* 知人が書いたものではないが、鋭い論説や興味深い知識を披露してくれるので読む。
どちらもblogという同じツールを使ってはいるが性格は全く異なる。
もちろん前者のタイプは、僕はその人個人の環境や性格を知っているので、まあ何が書いてあっても楽しく読める。チラシの裏で全く構わない。ただし知人でない人が読んでも何の印象も与えないので、社会的には意味がない。
一方、後者については従来は本や新聞が果たしていた役割で、もちろん社会的な意味がある。特に、梅田氏も指摘しているように、いろいろな分野の専門家のコメントを無償で読めるというのはblogならではの革命なので、そういう方向性の記事を書き溜めていく積み重ねが後世の人の「知的生産性の向上」に役立つのだろう。
今回の脱線事故をとっても、運転手の顔写真を一面に載せた夕刊フジとか、責任は国民にあるとか言い出すライブドアPJのアホ(JR西日本以外のどこに責任があるというのか?)とかの記事を読んでも時間の無駄でしかないわけで、それよりは現役の運転士や事故の調査をしている人など、その人の立場でしか書けないようなblogを読みたいと思うのが自然だろう。
理想的な「blogのある社会」とは、たとえば耳目を集める事件が起きたとき、ニュースサイトに行けばその事件に近い職業の人ならではのblogのリンクが張られているたり、ちょっと調べ物をしたいとき、検索すればその専門家の書いた記事が読めるというものだろう。
というわけで、自分もこれまでの行いを反省し、専門分野の記事を書いていこうと思います。そういったものと日々の日記とをどう区別・保存していくかは別の問題ですが、とりあえず始めてみないと。
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