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2010.02.21

プログラマはコードで会話する

 先日図らずも注目を集めてしまった人材獲得の件で。
 1人採用して、実際に仕事を始めて3週間経ったのでその感想。

 実は彼は中国人で、日本で生活して5年になるが、正直日本語はやや怪しいところがある。特に会話は。
 なので、日本の顧客と直接折衝するような仕事は無理なのだけど、プログラムを書いてもらうために雇ったのであるから言葉の問題はほとんど気にしていなかった。いざとなればこっちが英語で説明してあげればいいんじゃね?と軽く考えていた(中国語はマッタク分からないので...)。

 実際フタを開けてみると、本当にそのとおりだった。subversionのcommitごとにdiffを見ればどういう思考をしたかはだいたいわかる。むしろ、自然言語で進捗を報告すると、30%しかできていないのに80%できたと見栄をきったり、1日でできる仕事なのに「これは1週間はかかるッスね」と言って楽をするといった不正が簡単にできてしまうが(正直僕もやったことは過去にあります)、commitログはうそをつかない。これはたいへんに大きい。

 もちろん、何を作ってもらうかを理解してもらったり、大きな方針を議論するためには自然言語は必要ではあるが、プログラマ同士はプログラム言語で相当意志疎通できるものだし、信頼できる方法だ。

 たぶん、世の中の多くのプロジェクトは、commitログを見ても何がどれくらい進んでいるかを把握できない人が指揮をとっているためにものすごく大きなコストを払っている。

2010.02.10

中学受験について

 僕がいつも読んでるblogで、中学受験についての話が立て続けに出た。僕が受験してからはもう21年も経つんですね。

中学受験こそ日本のエリート教育の本流、東大なんてクソ
中学受験を終えて思うこと
 この小島先生は僕が中学生のときに数学を教わっていた。「ぼくは、「東京で中学生が数学を教わるなら小島先生」という超有名な人物になってしまった」とあるけど当時確かにそのとおりで、僕はその評判を聞いて親に費用をねだって通ったのである。でも僕はサピックス出身じゃないです。

 実は、僕は小学生のときはいわゆる受験エリートそのものだった。1万人以上が受ける試験で1位になったことが2回ある。(ただ、毎週*3年間試験を受け続けて、だが。10回以上1位を取ったもっと凄い奴も複数いた)

 一つ言えるのは、当時がんばって勉強してたのは別に大企業に行くためでも東大に行くためでも親を喜ばせるためでもなく、純粋に競技としての試験でスコアを出したかったから、というだけだった。スーパーマリオでノーミスクリアしたい、というのと動機としては大して変わりはない。
 スポーツはいまいちダメだったし学校の授業は知ってることばかりで時間の無駄だしで退屈している小学生だった自分には、この世界はすごく楽しかった。

 もちろん中学受験をすると決めたのは100%親の責任だけど、僕は幸運にもそういうのに向いていたのだな。

 今思えば、当時気づかかった中学受験最大のメリットは、矛盾してるようだが「受験のためのエネルギーロスを最小化できたこと」だ。
 小学生の時点で、受験勉強はチョロいと見切ることができた。実際、僕が大学受験用の勉強を本気でやりはじめたのは高3の11月からだが、東大理Ⅰ志望だったので楽勝だった。
 その分、時間とエネルギーを受験勉強ではなくもっと他のことに使えたのが人生に決定的な意味をその後与えている。中高6年間、思う存分にコンピュータとソフトウェアをいじり倒し、当時発売されたPC-9801用のゲームの半分以上はプレイした(手段は聞かないでください^^)という経験があるからこそ今の僕があるわけだし、それがなかったら今頃は平凡なサラリーマンをしていたかもしれない。

 その分小学生の時期には拘束時間は長かったわけだが、どうせ受験勉強をするんだったら、自我が十分確立して将来の方向性が決まってくる中高生時代を犠牲にするより、まだ親の付属物のような小学生時代を犠牲にするほうが何十倍もマシだろうと思う。

 あと、同じく試験を突破してきた比較的同質な友人が多くできるメリットも見逃せない。

 なので僕の娘には、まずは受験向きの資質があるかどうかをよく見定めて、ありそうだったら中学受験させたいと思ってます。

2010.02.05

探し物がヘタな件

 実は僕は探し物が超ヘタである。
 数日前に、妻から「冷蔵庫から納豆を取ってきて」と言われ、たっぷり1分以上冷蔵庫の扉を開けたまま考え込んでいたのでひどくあきれられたというのがあった。もちろん、納豆は隠してあるのではなく、(わかってしまえば)目の前においてあるのだが、僕の目には視界には入っていてもそれが納豆だとは認識できないのである。

 まあ似たようなことは子供のときから毎日のようにあるのだが、さすがに自分でもこれはかなりひどい部類と思うのでどういう思考をしていたのかゆっくり思い返してみた。
Natto

 すると、納豆と言われて頭の中でイメージしていたのは、左の(A)の状態だった。白いパックがむき出しの状態。
 ところが実際には、納豆はカバー付きの(B)の状態で冷蔵庫に入っていた。

 納豆と言われた時点で「白くて四角くて平べったい物体を探す」という思考で頭の中がいっぱいになるので、そうではない(B)が視界にあっても気づかないのだろう、というのが僕の推測だ。(推測できても問題は全く解決しませんが)

 言い換えれば、探している対象とは関係がないものを排除し、狭く深い思考にはまりやすい性質があるのだろう。
 プログラミングのような作業では、この「狭く深い思考」が得意なのはたいへん役に立つし、まさにその能力でメシを食っているのだが、日常生活には不便な点もある。
 「目の前にあるのに気がつかない」、というのはけっこう恥ずかしいのです。

 この欠陥は自分で認識しているので、一生車を運転することはないでしょう。そもそも免許がないが、運転できたところで事故を起こすのは目に見えている。

 そういえば、Wikipediaのジョン・フォン・ノイマンの記述でも、

何十年も居住している家の棚の食器の位置すら覚えられなかった他、1日前に会った人物の名前すら浮かばなかった。興味がないものに対しては全く無関心であると評された。

 というのがあるので、方向性としてはこれに近い。
 さすがに僕はここまでひどくないが、もちろん狭く深い思考力においてはフォン・ノイマンにかなうはずもないので、僕は平均的な人とフォン・ノイマンの中間にいる、ということか?

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